この事件については、警察ジャーナリストの黒木昭雄氏(故人)の調査によって出てきた情報が膨大にあり、全てを説明すると煩雑になって分かりにくくなりますので、ここでは簡単に流れを説明いたします。

 

詳細までお知りになりたい方は、黒木昭雄の「たった一人の捜査本部」をお読みください。

事件発覚後から公開捜査に至るまでの経緯

この事件は、2008年7月1日午後4時ごろ、岩手県川井村(当時)の山中の沢で、女性の他殺体が発見された事により発覚しました。

 

翌2日に司法解剖があり、県警はその結果を死後1~2日と発表、3日には遺体の身元が宮城県在住Bさん(17歳)である事を発表しました。

 

この身元判明の記事が載った4日の地元新聞の朝刊には、捜査本部が事件に関与した可能性がある「沿岸北部の男性」を追っている事も伝えられ、以降その男性が「田野畑村在住の28歳」である事や、2日に田野畑村の鵜の巣断崖で目撃されたのを最後に消息を絶っている事、前月28日夜にBさんを呼び出している事、1日に田野畑村内で交通事故(自損)を起していた事、捜査本部が「自殺と見せかけて逃走した可能性が高い」とみている事などが連日報道されました。

 

その後地元新聞は11日の朝刊で、「遺体の状態は現場の沢の水温などにも影響される」との理由で、「死亡推定時刻が司法解剖で示された『ー、二日ほど前』より、さかのぼる可能性もあることが十日、分かった。」と報道。

 

県警は事件発覚後1カ月が経とうとする7月29日に、容疑者として本籍田野畑村で28歳の小原勝幸氏に逮捕状を取り、同じ日に全国指名手配し、公開捜査とすることを決定。翌30日の朝刊ではじめて小原氏の名前と顔写真が新聞記事に掲載されました。

 

黒木昭雄氏が提示した捜査に対する疑問点

黒木昭雄氏は、事件発覚から2カ月が経った2008年9月に、テレビの取材で遺体遺棄現場や小原氏の故郷田野畑村を訪れました。

 

この取材を通じて黒木氏は、小原勝幸氏を単独犯と断定した上での県警の捜査に疑問を持ちました。

 

その中で、この裁判を理解するのに必要だと思われるものに絞って、列記いたします。(あくまで、私土岐の独断でピックアップしました。)

 

●小原氏が被害者Bさんを殺害する動機が見つからない

小原氏と被害者Bさんは顔見知りではあったものの、交際関係にあった訳ではなく。事件当時親しい間柄というほどでも無かった。被害者Bさん周辺の証言から、6/28に小原氏がBさんを呼び出したのは非常に高いが、それだけで小原氏がBさんを殺害したと断定するには無理がある。

●「死亡推定日」にアリバイ

死体検案書の「死亡したとき」の欄は、「平成20年6月30日頃から同年7月1日頃」。県警本部が発表した、2日に行われた司法解剖の結果は「死後1~2日」。この死亡推定の期間、小原氏が複数の証言から田野畑村にいる事が確認されている。

●引き伸ばされた「死亡推定日」

岩手医大での司法解剖結果は「6/30~7/1」なのに、7/10になって「沢の水温の影響で6/30から遡る可能性がある」事を県警が発表。最終的に県警は死亡推定日を「6/28~7/1」とした。水温の影響があるのは、検死する段階で分かっていた筈。6/28はBさんの足取りが分かっている最後の日で、7/1は遺体発見日だから、「死亡推定日6/28~7/1」というのは、単にBさんの足取りが分かっていない期間を死亡推定日時としているのと同じ。「6/30~7/1」では、田野畑村にいたアリバイや怪我の状況から、小原氏を犯人とすることが出来ないから、引き伸ばした可能性もあるのではないか。

●小原氏の右手の怪我

小原氏は6/29朝の段階で、右手に大きな怪我をしており、箸も持てない状だった。その日の夜に彼を診断した医師によると、「握る・開くが全く出来ない状況。あの手で、少なくとも計画的に何かやろうとは思わない筈。」との事。県警の見立では「単独犯」とされている小原氏だが、果たして左手だけで人を殺せるだろうか。

●遺体遺棄現場

遺体遺棄現場は、小さな橋の下にある沢。遺棄現場へ続く県道の両脇には鬱蒼とした茂みが広がっているにも拘らず、遺体は橋から目につくところに投げられている。28日晩、小原氏がBさんを宮城に迎えに行ったとして、その車の中で小原氏が殺したのだとしたら、見つけやすい沢に投げ込むだろうか。また、右手が「握る・開くが全くできない」状況だとしたら、左手だけで遺体を運んで橋から投げ入れるのはほぼ不可能ではないか。

●車の中の遺留品

県警は殺害現場を「小原容疑者の車の中」と断定していて、「Bさんの毛髪と履き物が見つかった」ことを小原氏を犯人だとする理由にしているが、それはBさんが車に乗った証拠にはなっても、そこで殺された根拠にはならない。また、見つかったとする「履き物」は赤いパンプスだったが、Bさんの遺族によるとこれはBさんのものではなく、当日履いて行ったのは「キティちゃんのサンダル」との事。

●ほぼ不可能な鵜の巣断崖からの単独逃亡

県警の見立てでは、「小原容疑者は、自殺を装って単独で逃亡した。」となっているが、小原氏が立っていた鵜の巣断崖には靴や財布、携帯電話カードが残されており、近くに公共交通機関が通っている訳でもない。このような場所から協力者も無しに逃亡する事は果たして可能だろうか。

●事件発覚後に自ら警察に連絡を取っている小原氏

7/2朝、小原氏は自ら久慈署に出かけようとしていた。最後に小原氏が目撃されたのもこの日で、場所は鵜の巣断崖。知り合いの目撃証言によると、この時断崖の突端で久慈署の刑事と話していたとの事。また、「鵜の巣断崖にいて、これから死ぬ。」と連絡受けた当時の交際相手も、この久慈署の刑事に連絡したが、警察が現場に動くことは無かった。殺人を犯した人間が、果たしてその後に自ら警察署に出向こうとしたり、刑事に電話したりするだろうか。

●小原氏の行方を捜索する様子のない警察

「鵜の巣断崖にいて、これから死ぬ」と言っている小原氏の元に、警察官は誰一人急行せず。翌7/3には田野畑村の清掃職員が遺留品を発見したが、それでも警察は捜索を7/4以降に後回しにし、消防団や警察犬の力を借りようとしなかった。

※これに対し、裁判で岩手県警は、7/2夜や7/3も捜索したと主張しています。しかし現場周辺住民の話によると、その期間警察が捜査をしている様子は見なかったとの事。

●小原氏が被害を受けていた恐喝事件との関連性

小原氏は前年5月恐喝の被害を受けており、被害届を2008年6月初めに久慈署に出していたが、何故か6/28になって小原氏はこの被害届を取り下げを試み始めた。結局6/30には「あと2、3日で犯人を逮捕するので被害届を取り下けないで下さい」と久慈署の刑事に言われ断念している。ところが小原氏失踪後、父親がこの久慈署の刑事に電話したところ、「被害届は受理していない」と説明。恐喝行為は、「日本刀を口に入れる」という方法で、これ自体銃刀法違反でもあり、これだけでも捜査できるはずだが、その捜査を全くせずに今日に至っている。ちなみに6/28はBさんが行方不明になった日であり、6/30はBさんの死亡推定期間と重なる。また、この恐喝行為が行われた時、小原氏は借用書を書かされたが、保証人欄の記入を要求され、当時の交際相手で、Bさんと同姓同名であるAさんの名前を記入している。6/28昼にAさんは、小原容疑者から「被害届を取り下げるので、一緒に警察に来て欲しい。」と言われたが、Aさんはこれを拒否。Bさんが失踪したのはその日の夜。

 

この他にも、黒木氏は様々な疑問点を提示しております。詳細は黒木昭雄の「たった一人の捜査本部」に書かれておりますので、是非ご覧ください。